たまにがんばってホラー見るときもあるんだよ(「IT / "それ"が見えたら、終わり。」

 

「IT」を見ました。スカルスガルドがペニーワイズやってる方のやつ。

公開当時も気になってはいたんですが、ホラー無理だしそもそもピエロや人形の類が怖いので映画館で見るのは本当に無理だと断念。

続編作るよという情報を見て、キャストにジェームズ・マカヴォイジェシカ・チャステイン、さらにはグザヴィエ・ドランがいると知り、これは見なきゃとなってしまった次第です。

マカヴォイにチャステインってなにそれX-MEN最終章ですか?ペニーワイズがタコ殴りにされる画しか浮かばないよ?と思っていたら1作目で既にタコ殴りだったので納得のキャストです。

 

 

 

ホラー映画だ!怖いやつだ!と思って身構えていましたが、観終わってみると少年たちが各々の弱さを克服していく青春映画でした。スタンドバイミーのバラエティ。リッチーのwelcome to the losers club!にわたしは泣きました。

 


ペニーワイズが恐怖を食べる(恐怖心を得て強くなる?)生き物なんですが、物理攻撃が有効なんですね。この辺が文化の違いなんでしょうか。影が怖いとか天井の染みがなんか動いてる気がする、というような感覚から生まれてるわけじゃないんだなあと思います。負の感情は、負の感情の象徴的なものを模して人に襲いかかってくる。

万国共通なのか、と思ったのは、女の悩みは排水口に流れるんだなというところ。みんな排水口に詰まった髪の毛は気持ち悪いんだな。あの汚さはなんなんでしょうね。自分の髪ってわかってても触りたくないよね。あのシーンが1番怖かったです。

 


ホラーだし見れない見たくない、という人もたくさんいると思います。わかります。でも、是非ともオープニングのシーンだけでも見て欲しい。

大雨の日にお兄ちゃんが弟のために紙で船を折るんですが、その映像が美しい。ああこれは大画面で見たかったと思うほどに。

 


スカルスガルドのペニーワイズは異形としての完成度が高いので、ティム・カリー版よりもしかしたら怖くないかもしれない。ヒース・レジャーのジョーカーよりジャック・ニコルソンのジョーカーが怖いのと同じように。好みの問題かもしれませんが。

その代わりと言ってはなんですが、映像技術がすごいんでしょうね。幻想的な光景は本当に美しいし、ペニーワイズの人外な動きなんかは笑いが止まらなくなるほどに気持ちが悪い。マリオネットというか球体関節人形の自在な動き。その昔のエクソシストの気持ち悪い動きがめちゃめちゃ進化した感じ。人体に近しい造形な分、不可能な動きをされると痛さと気持ち悪さでパニックになって奇声をあげます。映画館で観なくて良かったね。

 


IT:chapter one(2017)

director:Andy Muschietti

USA

 

 

 

という2年前のメモ書きを発掘しましたので

こちらに供養いたします。

 

 

 

夢の中まで活動しちゃったら脳みそがバグるとか思っちゃいけない(「ウルフウォーカー」)

「ブレンダンとケルズの秘密」を見逃してから何年経ったでしょうか。人にお勧めされてみたので「ブレンダン•••」の人たちとは知らないままに見てどっかで見たことのある絵だなと思いながらあとでwebを見て納得しました。

絵本みたいな背景に、直線と曲線で描き分けられる世界。やっぱり魅力的なので過去作もちゃんと観ようと思います。

登場人物たちになんでその名前をつけたのだろうかといつも考えてしまう癖がありまして、今回も違わず。特に今回はケルトだ!なんか聞いたことある名前がいっぱい出てきた!となったので余計に気になってしまいました。

イングランドから来た少女ロビンは緑の人ロビンフッド、その相棒のハヤブサには魔術師マーリン、森で出会った「ウルフウォーカー」の少女メーヴは妖精の女王の名前。ではロビンの父グッドフェローズは?

ぐぐりました。ありがてえなワールドワイドな知識にすぐアクセスできる現代社会。

民間伝承としてロビン・グッドフェローという妖精がいるんだそうです。人間と妖精の子としていたずら好きで人に親しみを持つ存在なんだそう(諸説あり)

そうか、少女ロビンも妖精だったのか。相棒マーリンだって人と夢魔の子だ。

彼女がRobin Goodfelloweであることから、父親はGoodfelloweと護国卿から呼びかけられるわけですが、この呼び名がなんとも皮肉だなと思うのです。彼のキャラクターは単純に「いいやつ」というより、「属するもの」として「善き人」という感が強いのです。従順であるものとして運命づけられ、護国卿の仕打ちが「怖いから」従わざるを得ないのだという苦しみを抱える。

 

「怖いのだ。お前が牢に入れられてしまうこと、お前と離れ離れになることが」

「今だって檻の中にいるじゃない」

 

少女二人の冒険譚だと思って見ていたけれど、実は違うんじゃないか。だって彼女たちは最初から「人の世界」に属しきってはいないのだ。あちらとこちらを作ってはいないのだ。

 この映画の中で、ある種本当に冒険し、何かを見つけたのは父親だったんじゃないか。そんなふうに思うのはわたしが歳を取ったからでしょうか。

 

ところでもう一人、呼び名のある人が出てきます。イングランドの護国卿 ’Lord Protect'です。彼は神’Lord’の御心と言ってアイルランドの開拓を進めようとする。彼自身がLordを名乗りながら。そしてファンタジーの生きる世界で、Lordは墜落するのです。なんともまあ過激な話じゃないでしょうか。時代設定としてまんま護国卿クロムウェルなのだと、これも後から知りました。好奇心は人を賢くするね!

 

 

Wolfwalkers(2020)

Tomm Moore and Ross Stewart

Ireland-Luxemburg-French

Cartoon Saloon and Mélusine productions

 

ジョントラボルタが女装して歌って踊るやつ(『ヘアスプレー』)

我慢しきれず「ヘアスプレー」(2009)を観てきました。


そもそもどんな話なのか知らず、なんかおデブの女の子が頑張る話なんだろうなくらいに思っていて、あとはずーっと昔に幼なじみが1番すきな映画にあげていた気がするな、というくらいで、まあ考えなくていいハッピーな映画が観たいと思って行きました。

つまり侮っていました。

 

ボルチモアが舞台で、1番最初に見逃すかもしれないくらいのスピードで「黒人の入学を大学が拒否」というニュースが流れる。
その後に、どう見ても脳内お花畑の女の子が
good morning baltimore! everyday's like open the door!と底抜けにハッピーに歌い始める。
彼女のテンションは劇中一貫していて、最初になんやこいつとひいてしまっても、気がつけば笑ってしまうくらいにエネルギーが強いのです。

the world keeps spinning round and round
物語は一貫してこの態度で進んでいく。

トレイシーにとって、相手の肌が何色だろうが飲んだくれだろうが関係ない。クラスの中ではたぶん浮いていて、お母さんは10年来の引きこもりで、どうやったらこんなハッピーな人格形成ができるんだと疑問に思わないでもないけど、とにかく出会う者に手を振るし、周りもうっかり笑顔になってしまう。


三者三様のbig,blond,beautifulが歌われるように、美しさは何通りもあって、排他的な者も含めて多様な人がいる。
いつだってわたしは変われるしあなたも変われる。
だって地球は回っていて、いつだって明日はくるんだから。
frontierであるアメリカ、憧れのアメリカ、こうなっていきたいしきっとこうなっていけるんだという姿が描かれ続ける。


おもしろいのは若者たちの思想が必ずしも親や教育に育まれているわけじゃないこと。

大人が導くことがあればその逆だってあり得ること。

誰か、何かとの出会いによって踏み出せる一歩があること。
これを違和感なく演出するのって、もしかしたら日本では難しいんじゃないか。
もちろんミュージカル映画特有の力業展開ではあるけれど。

そんなことをサントラ聴きながら考えています。



Hey,old friend,let's look back

On the crazy clothes we wore

Ain't it fun to look back

And to see it's all been done before?

"Come So Far(Got So Far to Go)"

 

 

あんな見事に不味そうなラーメン見たことある?(『最初の晩餐』)

まだ寒い雨の中、ギリギリ上映していた映画館に『最初の晩餐』を観に行きました。20年来窪塚くんがすきと言い続けている人間なので。なんであんな静かな顔ができるんだろう。どこか遠いところを見ているようなそんな表情がすきです。

 

 

「血も繋がってないのにわかったような口きかないで」

この類の主張にわたしは異議を申し立てたい。

血縁の物言いほど「勝手に言っとけ」と鼻で笑いたくなることはない。なぜか?図星を言われるからか?違う。血縁がいちばん「わかったような口」をきくからだ。おまえはこういうやつだと決めてかかりがちなのは血縁親族であり、お前の情報3年は古いけどなと心の中で中指を立てること100万回である。

では他人の指摘はどうか?これを一笑に付すことができないのは図星だからだ。己の持つ価値観とは違った角度から、えぐってくるのが他人だ。だから、大きくいうなら、全くの他人のことばは世界を変える力を持つことがあるとわたしは思う。

 

「最初の晩餐」は家族の話だ。

家族のあり方に、家族というものに疑問を抱いたことのあるすべての人に見てほしい映画だ。家族は、血の繋がりなんていう単純なものでできあがるのではないと、よく教えてくれる映画だ。

 

世界で一番許せない人がいる。死ぬまで許さないだろう人がいる。そう言う人ってたぶん、他人にはなかなかうまれない。そこまでの執着を持てることが稀だからだ。

 

父親が死んで、通夜の席にぎこちなく集まる家族。直情的な姉(戸田恵梨香)も斜に構えた弟(染谷将太)も、なにを考えてるのかわからない母(斉藤由貴)もあまりにもはまり役で笑ってしまった。

 

年の離れた兄弟を持つ末っ子というのは厄介だ。実体験での感覚なので全ての末っ子がそうとは限らないけれど、どうしたって大人からの疎外の経験が豊富になるのだ。子どもだから先に寝かされて、子どもだから詳細は知らされず、子どもだからまともに取り合ってもらえない。そうなると相手からのアクションは期待できないから、顔色を伺って空気を読んで、大人びたらいろんなことが煩わしくなって冷めた頭を持つようになる。

 

「なんで結婚しようと思ったの?家族なんて煩わしいだけじゃん」同意しすぎて心の中で首がもげそうになった。煩わしさを大なり小なり体験して大人になっているはずなのに、なぜひとは結婚しようと思うのか、家族を作ろうと思うのか。寂しいからか?寂しさなんて家族の中にあってもなくならなかったじゃないか。

明確な答えは誰もくれなかったけれど、「この人と一緒にいたい」たぶんそれに尽きるのだ。なんとかしようと努力し続けること、どうでもよくならないことでしかコミュニティは作れない。

食事の空間はその努力が顕著だと思う。何をテーブルに並べるか、何を食べるか、どんな会話をするのかしないのか。家族じゃなくても、なんなら飲みの場であっても。そこで食べた何が美味しくて何がまずくて、誰に美味しいと思ってもらいたかったか。

 

「お父さんの好き嫌いをお母さんは知っていたと思いますか」勧めたら観てくれた母からこんなメールが来た。観た直後は子どもたちと一緒に「知っとったな?!?!」となったけれど、はっきりとは知らなかったんじゃないかなとも思う。こどもの成長のために好き嫌いを我慢する父より、好きな人に好き嫌いが多いことを知られたくない格好つけ、と思うのがしっくりきたのだ。だってそっちのほうがばかばかしくて素敵じゃないか。

 

 

2020 1月末のメモより

 

 

 

 

 

ドランのサントラベストはwonderwallなんですけどどう?(『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』)

 

メインキャストたちにリバー・フェニックスをめちゃめちゃ感じたんですけど、いじめっこセドリックのビジュアルもなにかからきてるんですか?それとも英国のいじめっこは大体あんな感じなんですか?どっかで見たことある気がするんだよなあ

 

グザヴィエ・ドラン『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』を観てきました。

これまでとは違う大々的なプロモーションで、えっそんな感じ?と思いながら公開を待ってたんですが、エンディングが今までとは違いました。今回虚無感で1週間落ち込むことにはならなそうです。

 

I know youはドランにとって呪いのことばなんでしょうか。それとも、そこにばかりひっかかるわたしにとっての呪いなんでしょうか。

 

「君は僕にとってはただの青年で、君の仕事は僕の孫の憧れだ」「こんなところで1人でご飯を食べるんじゃない」ダイナーで出会う老人のことばにどうしようもなく涙が出ました。(マイケルガンボンやんけ!ダンブルドア先生!!!!とテンションが上がってしまったのは育ち的に致し方ないのです。)

 

人は物事を複雑にする。他者の視線に意味を感じ、本人はただ空を見上げているだけでも「あ、今の話つまんないんだな」だとか「彼を思い出しているんだな」だとか、勝手にわかった気になって、次のアクションを考える。

映像表現を観るときは意識的にそうでしょう。頭を搔くのは困っていて鼻をこするのは照れているアクションであると、文化的に、経験に基づいて信じている。ただ痒かっただけかもしれないのに。

 

ルパートが語る内容が本当なのか、そもそも手紙は実在したのか、ドノヴァンの孤独がどこにあるのか、そんなことはたぶん問題じゃなくて、ただ、人がそこに何を見出して何を信じることを選択するか、それだけの話なんだと思う。記者がルパートの話を聞こうと決めたのは、彼の話が嘘じゃないと思ったからではなく、己の信念と彼のことばの一致を認めたからだろう。

たったひとつの真実なんて求めようがないのだ。問題は、何を信じるかでしかない。何を信じると己が選択するか。そうしてひとは明日を迎える。

今まで見たこともなかった人と出会う可能性があって、つまりそれは、今まで信じていた世界が崩れる瞬間がやってくる可能性があるということ。ウィルの手を取れなかったジョンも、ジョンの手を取らなかったバーバラも、明日があれば違っていたかもしれない。

前作『たかが世界の終わり』で母親は「今はだめでも明日になればきっと笑える」と言いました。今作でも母親は「今は無理、明日も無理、でもきっといつかわかる日が来る」と言う。

何をバカなことをと前回は思ったけれど、たぶん母親はそうやって生きてきたし、そうやってどうしようもないわたしたちを見放さないでいてくれたのだ。

 

ありのままの姿を求められることの苦しみを、たぶんドランはずっと描いているけれど、この映画でわたしが救われたのは、君の「仕事」が「憧れ」だと認めてくれる知らない人がいて、ありのままなんて「そいつはやばいな」と笑ってくれる兄がいることだった。

 

落ち込まなくてすむと最初に言ったのは、オードリーの笑顔があったからだ。最後の、騙されたと言わんばかりの笑顔。もちろんふたりのバイク姿も美しかったけれど。こういう人だという思い込みがすべて覆されたような、そんな爽快感があった。

 

 

さて、ドランといえば音楽ですが、今回のrolling in the deepとhanging by a momentもめちゃめちゃかっこよかった。ただしstand by meおまえはだめだ。マイアヒ並みなげらげら笑ったわ。

なんなの?わたしが日本人なのが悪いの?欧米人は耐えられるの?マイアヒはまだしもあんな壮大なstand by meは無理じゃない?あ、全部嘘なんだなってなるでしょ。ならせてんのか?

まあ上映前予告でドランの新作流れた時点で笑いが止まりませんでしたが。これはもしやあれだな?レオンからのフィフス・エレメントと一緒のやつやな?わたしはどっちもおいしいのでかまわんけどな!

 

 

 

 

 

 

 

火野正平がかっこよすぎると言ったらお前の趣味もどうなんだと言われた話(『アリー・キャット』)

『アリーキャット』観てきました。

 

 

 

「ハヤトのためって言いながらほんとはずっと自分がしあわせになりたかっただけなの」

「おれのしあわせは?」

 

自分がしあわせになりたいのだと、そのためには自分が必死になるしかないのだとサエコ市川由衣)が気づいたところから物語は始まる。

 

自分の問いは自分で答えるしかないのだ。だから生きるのは苦しい。

絶対的なものなんてなくて、自分がその瞬間に決めて動くしかないのだ。

誰に甘えるのも誰のために我慢をするのも、自分でしかない。

すべては自分の選んだことなのだと認められない人間は「下品」だ。

問いの答えを人にゆだねた瞬間から思考は止まる。止まった瞬間、人間は自分が生きていることの責任を放棄し、死人になる。

タマキ(品川祐)が怖いのは動く死人だからだ。

品川さんは撮影中絶食してたといっていたけれど、そういうことだ。死人の顔にどんどん近づいていく。物語の頭から、どんどんどんどんタマキは死んでいく。

 

 

 

自分に責任を持ち始めた人間と、そうでない人間の対比が圧倒的な映画だ。

マル(窪塚洋介)とリリー(降谷建志)のその変化の描き方もうまい。

ふたりで言い合いをしていたのが、途中からどちらかが怒鳴るだけという形に変わる。

リリーがクサクサしながら「こんなん今までとなんも変わんねえじゃん!」と暴れるときも、マルが「どうしろっつうんだ!」と車の中で怒鳴り散らすときも、誰かにではなく自分に怒鳴るのだ。

答えないのだ、誰も。自分で自分に怒鳴り散らすのだ。自分で自分に答えを返すしかないことに、彼らは気づいている。

そこが、「サエコは?どこ?」と探し続けるタマキや「人助けが仕事です」と化け物みたいな顔で言うカキザキ(三浦誠己)との違いなんじゃないか。

 

 

「わるいけど、結構すきに生きてるんだ」って、すてきな終わりのことばだと思う。

この終わり方だけで、わたしはこの映画がすきだと言える。

 

俺の人生なんか負けっぱなしなんだよって、劇中ずーーーーっとくさっていたマルが、最後の最後で「結構すきに生きてるんだ」って力の抜けた顔で言う。

 

好きも嫌いもはっきり言わず、なんとなく空気に合わせて適当に笑って、そういう能力だってわたしは大事だと思うけど

自分の幸せくらい自分で責任持って生きる方がきっと楽しい。すきに生きてるって、なかなか言えないけど、すきに生きてるって、いつか言えるように。




 

 

 2017.08.17 メモ書きより

ちょうど3年前のメモより(『たかが世界の終わり』)


ネット環境も整わない小部屋から、LANケーブルを手に入れてワールドワイドに接続可能になったよ!今時LANケーブルて!びっくりするほど安かったわ!



グザヴィエドランの「たかが世界の終わり」をみました。

12年間家に帰ってなかった男が実家に帰る日の話。

自分はもうすぐ死ぬのだと、誰かに伝えるために。


良作だとか駄作だとか、そんなこと心底どうでもいいと思う映画を初めてみました。

頭の中を覗かれている気分でした。


12年ぶりに会う息子を前に、母親が「この愛は誰にも奪えない」と言う。団欒もクソもない状況で「いまは無理でもあとで笑える」と言う。


幸せだった幼少期、ドラッグを覚えゲイを自覚しおそらくそれによって疎外された少年期(どれがどういう順序なのかは知りません)、アーティストとして成功を掴んだ青年期

彼のざっくりとした表面的なプロフィールは開示され共有されるけれど、日々どんなことを思って、どんな思想があって、なにが本当に好きで嫌いで、なにを求めて生きてきたのか、わたしにはわからなかった。なんならルイ自身もわからなくなった、もしくは、わかっていたことなんてないのかもしれない。


愛していると叫ぶ母も、おまえのことなど知りたくないと怒鳴る兄も、あなたの影を追っていると言う妹も、本当はルイのことなどなにも知らないのだ。

知らないけれど、わかっているつもりになって、切っても切れない何かがあると、アプローチは違えど信じている人たちに見えた。



人に造られた自分以外に、自分っているのだろうか。

タグ付けされ、「あなたってこうよね」とまわりからラベルを貼られる以外に、自分ってあるのだろうか。中学生かよ、と言いたくなるような疑問だけれど、人の苦しみって結局ここにあると思う。

「わたし」が「わたし」である瞬間なんてどこにもない。意識的に作っていようが、その時その時の自分の顔を、「わたし」だと引き受けるしかない。



人は人を愛したいし、人は人に愛されたい。きっと本当の事だと思うけれど、同時に、全部嘘っぱちだろうとも思う。

人が何によって成立するのか。「わたし」と「あなた」が生きていることを確かめる術はあるのか。打ってて恥ずかしくなる文字列だけれど、たぶんこれはそういう物語だ。


生まれ育った町で、唯一の記憶の主が、知らない間に死んでいた。そんなものだ。騒ぐほどのことでもない。だって、知らなきゃ死んでないんだから。兄から彼の死を聞かされたルイが、ひとりぼっちで最後のラッキーストライクをふかす姿に涙が止まらなかった。


人は静かに死んでいく。一度ですっぱりと死ぬ人など、たぶんどこにもいないのだ。