BLアンソロがよかった(映画版『死者の帝国』)
あまりに文章を書かないのでリハビリにはじめました。
一発目なのに酷いタイトルですね。腐女子ブログではありません。
先週末project Itoh第1弾『屍者の帝国』を駆けこみで見てきました。
もうどこも公開終わったんかな。ネタバレ込み原作既読での感想をつらつら。
「求めたのは、21グラムの魂と君の言葉」(映画キャッチコピー)
「ただもう一度君に会いたかった!聞かせてほしかった!君の言葉の続きを!」(予告ワトソンくん)
この時点で「君って誰だよ」と首を傾げてはいました。冒頭3分(体感)でわかりました。
フライデーだったかー。やっぱハダリーではなかったかー。そっかー。
開始3分(体感)で「総員!原作知識を捨て置け!BLに備えろ!」と全身に指令を下し、
全編通じて「BLやん・・・」の結果。
映画版のワトソンくんはフライデーの魂を求めてウォルシンガムの任に就きます。全ては早逝してしまった親友フライデーくんとの約束を守るため。病に侵され死期を察していたらしい天才児フライデーくんは自分の死体を盗んで屍者化しろと言い、屍者化した自分が魂(記憶と同義なのかな)を持っていればこのペンでお前の鼻をツンツンして合図を送るから、と約束するのです。(あってるよね?)
なんや鼻ツンツンて。そもそもフライデーはコードネームとかでなく生前からフライデーなのか。それとも屍者化したときにワトソンくんが名づけたのかな・・・。なんかやだな・・・。なんにせよ設定が一から十までBLくさい。
原作は全然違います。
ワトソンくんとフライデーはエージェントとレンタルされた記録係でしかありません。友愛も親愛も情愛も本来はない。
原作だと魂の探求がメインだけど映画版はこのふたりの関係、というかワトソンくんのひとりよがりな欲望を主軸にしているらしい。
この設定変更が開始3分の総員以下略と叫んだ理由です。
ウォルシンガムからワトソンくんに課せられた任務はヴィクターの手記の捜索。
ヴィクターとはメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のヴィクター博士のことで、その手記には最初にして最高の屍者(生者のように動き思考する屍者)である”ザ・ワン”の製造方法が記されているらしい。新型屍者の製造に成功しているらしいアレクセイ・カラマーゾフがその手掛かりであり、フライデー(生前)にもう一度会いたい一心のワトソンくんは指令に従いアフガニスタンへ。合流したバーナビーと共に、ニコライ・クラソートキン(アリョーシャの弟子)の案内でアリョーシャのもとへ辿り着くわけですが
Q:なんでアリョーシャ死んだの?
A:BLだから
ちがう答えをください。
原作アリョーシャはロシア皇帝暗殺云々で死んだような気がするんですけど映画版はなんで死んだんですか?
生者を屍者化するという新型屍者の製造工程をワトソンくんに見せつけるためですか?生者を生きたまま屍者化するって、まあえげつないしワトソンくんが道中で鹵獲し解剖した屍者も生者の屍者だったわけだから罪の意識を芽生えさせるシーンかもしれないけど、
そもそも死体泥棒だからなワトソンくん。
三木眞とショタ(アリョーシャとニコライ)のBLメリバエンドを作りたかったとしか思えない。既に屍者化したドミトリィ兄に給仕させて美少年弟子ニコライと死に生きながら摂る食卓ってなにその病んだ欲望の具現化。
「ヴィクターの手記は必ず廃棄すると約束してください」っておめーがしろよ!!!なんでおめーは人間ニトロ爆弾やら婦女子の屍者化やら(帝国にやらされてたとしても)やるだけやって夢の国に飛ぶんだ意味わかんねえよ!!!
バーナビーはアリョーシャの結末を「落とし前をつけた」と納得しその遺志(手記の廃棄)を継がねばとなるわけですが、なんで彼らの屍者化が「落とし前」になるのかわたしにはさっぱりわかりません。生者の屍者化自体はクライマックスへの布石と捉えられるけど、
アリョーシャ、無駄死にじゃない?
ほんと、カイバル峠のシーンは「ぼくのかんがえたさいきょうのびーえる」でした。
三木眞とショタ、最高ですね。最高だと思います。二度言いました。
もう原作に固執せずにあのアリョーシャの物語をやればよかったんじゃないですかね。
カイバル峠からザ・ワンと手記を追って日本、アメリカ、イギリスと場所が移るわけですが、日本アメリカのくだりはつくりが雑だし、ワトソンくんの意識は全然ザ・ワンにむかないし、イギリス帰ってチャールズ・バベッジでのザ・ワン、Mとの対決に至っては、ぽかーんでしかない。
原作の第3部はわたしはあんまり理解できてないし、まあ作るのも困ったろうなとは思う。
が、そんな突然超常現象処理されても困りますよ。本来あったはずの伏線全部取っ払っていちばん意味わかんない暴走だけ持ってこられてもぽかーんですよ。
「何が起こってるかわかんないって?大丈夫!おれもわかんねえ!」じゃねえよ。
物語後半、「ヴィクターの手記」には何が書かれているのか、魂とは何かという問題迫るところだと思うんですが
原作的には手記に書かれていることは「わかんない」でいいんだと思います。
手記は解読できるしできないもので、物語を孕んだもの。でたらめでどうとでも組み替えることができるもの。そこから構成して物語化していく。
ザ・ワンとハダリーの戦いはそのことばの組み換え合いだったんだろうし、小説を通してどのキャラクターが言っていることもある意味全部でたらめととれる。そもそもグレートゲームに実在/非実在のキャラクターを意味ありげに登場させ意味ありげに関連させて作られたそのでたらめさが全てなんじゃないかと。
人間がでたらめなところに「これは何か意味があるんだ!」と再構成したがる姿を体現した小説だと思うし、そうやって構成していく能力を、魂と呼んでいるということなんじゃないかと
今のところ考えています。
人間は無からの創造はできないから。
だからラストシーン、ワトソンくんの記録係の任を解かれたフライデーがそれまで「書き連ねてきた数多の文字を拾い集めて並べ直し」文章を綴る意識を発現させるのに納得がいく。
ただ映画版は、
ワトソンくんの行動も手記やザ・ワン、ライティングボール等から逸れてる(どうみてもフライデーしか見ていない)し、そういう原作にある魂とは何ぞやと思考する場面をだいたいカットしていて
ワトソンくんは割とお手軽に手記を「解読できた!」とか言ってるしサンフランシスコでフライデー(生前)の意識が確認されて約束の鼻ツンしてるのにラストシーンではどうも別の人格(原作的人格)が生まれてるし、なにがなんだか。
というか意識(生前)を認めた上でフライデーの自害を止めるのはどうなんだよ。ワトソンくんそれはただのひとりよがりな自己愛じゃないか。
まあ主軸がワトソンくんとフライデーの関係に移行しているから魂云々はどうでもいいのかな。
鼻ツンの約束は果たされたわけだしな。ただしそうするとホームズの登場は本当に蛇足だったと思います。エンドロールでまだ登場していないホームズのCV流すのは卑怯だ。
いまここまでつらつらと書きながら、つくづく意味わかんない映画だったなと思ったしここまで読んで下さった方がいたとしたら本当に申し訳ないくらいに訳の分からない文章だったと思います。ごめんなさい。だってがばがばなんですほんと。
もう公開最終週やし、まあガラガラやろと余裕こいてカフェにしけこみぎりぎりにチケットとったらほぼ満席で「え、なに評判良いの?」と期待度をあげたらこのザマです。
脚本にお腐れ様がいたとしか思えないがばがばBL二次創作なんです。
だってキスできないし。ザ・ワンさえ花嫁を取り戻せないという徹底ぶり。
もしかしてアリョーシャとニコライはワトソンとフライデーに対比されてたのかな。屍者化して死ぬカップルと屍者化して生きるカップル・・・?フライデーが無駄に若いのはそういうことか・・・。
キャストは豪華だし、絵もきれいだしカイバル峠への旅路背景は最高にきれいだったし屍者たちのフランケンウォークもとっても良かったし、ノーチラスの造形とかほんと笑ったし
なにより三木眞とショタは最高だしBL映画だと思えば最高だったかもしれない。ストーリーはがばがばだけど。仕方ない。BLアンソロジーだもの。くそだなって思ったけど、BLだと思えばなかなか良作だった。満席で絶対に笑ってはいけない耐久レースしたもの。うん。DVDでたらもう一回見ようかなと思ってるしおもしろかったんですね。
でも山澤静吾を雑に扱ったのだけは許さんからな。それだけは絶対許さんからな。
結論。
『屍者の帝国』BLアンソロとして原作沿い二次よりアリョーシャの物語が見たい。
長々とお付き合いありがとうございました。