ドランのサントラベストはwonderwallなんですけどどう?(『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』)

 

メインキャストたちにリバー・フェニックスをめちゃめちゃ感じたんですけど、いじめっこセドリックのビジュアルもなにかからきてるんですか?それとも英国のいじめっこは大体あんな感じなんですか?どっかで見たことある気がするんだよなあ

 

グザヴィエ・ドラン『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』を観てきました。

これまでとは違う大々的なプロモーションで、えっそんな感じ?と思いながら公開を待ってたんですが、エンディングが今までとは違いました。今回虚無感で1週間落ち込むことにはならなそうです。

 

I know youはドランにとって呪いのことばなんでしょうか。それとも、そこにばかりひっかかるわたしにとっての呪いなんでしょうか。

 

「君は僕にとってはただの青年で、君の仕事は僕の孫の憧れだ」「こんなところで1人でご飯を食べるんじゃない」ダイナーで出会う老人のことばにどうしようもなく涙が出ました。(マイケルガンボンやんけ!ダンブルドア先生!!!!とテンションが上がってしまったのは育ち的に致し方ないのです。)

 

人は物事を複雑にする。他者の視線に意味を感じ、本人はただ空を見上げているだけでも「あ、今の話つまんないんだな」だとか「彼を思い出しているんだな」だとか、勝手にわかった気になって、次のアクションを考える。

映像表現を観るときは意識的にそうでしょう。頭を搔くのは困っていて鼻をこするのは照れているアクションであると、文化的に、経験に基づいて信じている。ただ痒かっただけかもしれないのに。

 

ルパートが語る内容が本当なのか、そもそも手紙は実在したのか、ドノヴァンの孤独がどこにあるのか、そんなことはたぶん問題じゃなくて、ただ、人がそこに何を見出して何を信じることを選択するか、それだけの話なんだと思う。記者がルパートの話を聞こうと決めたのは、彼の話が嘘じゃないと思ったからではなく、己の信念と彼のことばの一致を認めたからだろう。

たったひとつの真実なんて求めようがないのだ。問題は、何を信じるかでしかない。何を信じると己が選択するか。そうしてひとは明日を迎える。

今まで見たこともなかった人と出会う可能性があって、つまりそれは、今まで信じていた世界が崩れる瞬間がやってくる可能性があるということ。ウィルの手を取れなかったジョンも、ジョンの手を取らなかったバーバラも、明日があれば違っていたかもしれない。

前作『たかが世界の終わり』で母親は「今はだめでも明日になればきっと笑える」と言いました。今作でも母親は「今は無理、明日も無理、でもきっといつかわかる日が来る」と言う。

何をバカなことをと前回は思ったけれど、たぶん母親はそうやって生きてきたし、そうやってどうしようもないわたしたちを見放さないでいてくれたのだ。

 

ありのままの姿を求められることの苦しみを、たぶんドランはずっと描いているけれど、この映画でわたしが救われたのは、君の「仕事」が「憧れ」だと認めてくれる知らない人がいて、ありのままなんて「そいつはやばいな」と笑ってくれる兄がいることだった。

 

落ち込まなくてすむと最初に言ったのは、オードリーの笑顔があったからだ。最後の、騙されたと言わんばかりの笑顔。もちろんふたりのバイク姿も美しかったけれど。こういう人だという思い込みがすべて覆されたような、そんな爽快感があった。

 

 

さて、ドランといえば音楽ですが、今回のrolling in the deepとhanging by a momentもめちゃめちゃかっこよかった。ただしstand by meおまえはだめだ。マイアヒ並みなげらげら笑ったわ。

なんなの?わたしが日本人なのが悪いの?欧米人は耐えられるの?マイアヒはまだしもあんな壮大なstand by meは無理じゃない?あ、全部嘘なんだなってなるでしょ。ならせてんのか?

まあ上映前予告でドランの新作流れた時点で笑いが止まりませんでしたが。これはもしやあれだな?レオンからのフィフス・エレメントと一緒のやつやな?わたしはどっちもおいしいのでかまわんけどな!