火野正平がかっこよすぎると言ったらお前の趣味もどうなんだと言われた話(『アリー・キャット』)
『アリーキャット』観てきました。
「ハヤトのためって言いながらほんとはずっと自分がしあわせになりたかっただけなの」
「おれのしあわせは?」
自分がしあわせになりたいのだと、そのためには自分が必死になるしかないのだとサエコ(市川由衣)が気づいたところから物語は始まる。
自分の問いは自分で答えるしかないのだ。だから生きるのは苦しい。
絶対的なものなんてなくて、自分がその瞬間に決めて動くしかないのだ。
誰に甘えるのも誰のために我慢をするのも、自分でしかない。
すべては自分の選んだことなのだと認められない人間は「下品」だ。
問いの答えを人にゆだねた瞬間から思考は止まる。止まった瞬間、人間は自分が生きていることの責任を放棄し、死人になる。
タマキ(品川祐)が怖いのは動く死人だからだ。
品川さんは撮影中絶食してたといっていたけれど、そういうことだ。死人の顔にどんどん近づいていく。物語の頭から、どんどんどんどんタマキは死んでいく。
自分に責任を持ち始めた人間と、そうでない人間の対比が圧倒的な映画だ。
マル(窪塚洋介)とリリー(降谷建志)のその変化の描き方もうまい。
ふたりで言い合いをしていたのが、途中からどちらかが怒鳴るだけという形に変わる。
リリーがクサクサしながら「こんなん今までとなんも変わんねえじゃん!」と暴れるときも、マルが「どうしろっつうんだ!」と車の中で怒鳴り散らすときも、誰かにではなく自分に怒鳴るのだ。
答えないのだ、誰も。自分で自分に怒鳴り散らすのだ。自分で自分に答えを返すしかないことに、彼らは気づいている。
そこが、「サエコは?どこ?」と探し続けるタマキや「人助けが仕事です」と化け物みたいな顔で言うカキザキ(三浦誠己)との違いなんじゃないか。
「わるいけど、結構すきに生きてるんだ」って、すてきな終わりのことばだと思う。
この終わり方だけで、わたしはこの映画がすきだと言える。
俺の人生なんか負けっぱなしなんだよって、劇中ずーーーーっとくさっていたマルが、最後の最後で「結構すきに生きてるんだ」って力の抜けた顔で言う。
好きも嫌いもはっきり言わず、なんとなく空気に合わせて適当に笑って、そういう能力だってわたしは大事だと思うけど
自分の幸せくらい自分で責任持って生きる方がきっと楽しい。すきに生きてるって、なかなか言えないけど、すきに生きてるって、いつか言えるように。
2017.08.17 メモ書きより