ちょうど3年前のメモより(『たかが世界の終わり』)
ネット環境も整わない小部屋から、LANケーブルを手に入れてワールドワイドに接続可能になったよ!今時LANケーブルて!びっくりするほど安かったわ!
12年間家に帰ってなかった男が実家に帰る日の話。
自分はもうすぐ死ぬのだと、誰かに伝えるために。
良作だとか駄作だとか、そんなこと心底どうでもいいと思う映画を初めてみました。
頭の中を覗かれている気分でした。
12年ぶりに会う息子を前に、母親が「この愛は誰にも奪えない」と言う。団欒もクソもない状況で「いまは無理でもあとで笑える」と言う。
幸せだった幼少期、ドラッグを覚えゲイを自覚しおそらくそれによって疎外された少年期(どれがどういう順序なのかは知りません)、アーティストとして成功を掴んだ青年期
彼のざっくりとした表面的なプロフィールは開示され共有されるけれど、日々どんなことを思って、どんな思想があって、なにが本当に好きで嫌いで、なにを求めて生きてきたのか、わたしにはわからなかった。なんならルイ自身もわからなくなった、もしくは、わかっていたことなんてないのかもしれない。
愛していると叫ぶ母も、おまえのことなど知りたくないと怒鳴る兄も、あなたの影を追っていると言う妹も、本当はルイのことなどなにも知らないのだ。
知らないけれど、わかっているつもりになって、切っても切れない何かがあると、アプローチは違えど信じている人たちに見えた。
人に造られた自分以外に、自分っているのだろうか。
タグ付けされ、「あなたってこうよね」とまわりからラベルを貼られる以外に、自分ってあるのだろうか。中学生かよ、と言いたくなるような疑問だけれど、人の苦しみって結局ここにあると思う。
「わたし」が「わたし」である瞬間なんてどこにもない。意識的に作っていようが、その時その時の自分の顔を、「わたし」だと引き受けるしかない。
人は人を愛したいし、人は人に愛されたい。きっと本当の事だと思うけれど、同時に、全部嘘っぱちだろうとも思う。
人が何によって成立するのか。「わたし」と「あなた」が生きていることを確かめる術はあるのか。打ってて恥ずかしくなる文字列だけれど、たぶんこれはそういう物語だ。
生まれ育った町で、唯一の記憶の主が、知らない間に死んでいた。そんなものだ。騒ぐほどのことでもない。だって、知らなきゃ死んでないんだから。兄から彼の死を聞かされたルイが、ひとりぼっちで最後のラッキーストライクをふかす姿に涙が止まらなかった。
人は静かに死んでいく。一度ですっぱりと死ぬ人など、たぶんどこにもいないのだ。